私立校の教員にとって「栄転」とは何か

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▲東大の安田講堂ウィキペディアより。

大学教員の「栄転」

東大経済学部の市村英彦教授アリゾナ大学へ、同学部の加藤賢悟准教授(前任校の広島大ウェブサイトへのリンク)がコーネル大学へ、それぞれ移籍するという。

日本の大学からノーベル経済学賞受賞者は輩出されていない。その事実だけをとってみても、日本が経済学研究の本場ではないことがわかる。日本よりもよい経済学研究の場所が国外にあるのであれば、(能力的、経済的、あるいはその他の面から)可能な人は国外へと渡るのである。

経済学徒ではないので想像で語っているが、恐らく両氏の転職は「栄転」なのだ。東大ですら、ある領域の学者にとっては目指すべき、あるいは安住すべき最高峰ではないのである。

大学院の「恩師」の栄転

卑近な例を。拙がかつて世話になった大学教授がやはり他大へと移籍するという。

(どう世話になったのか:大学を修士で修了せざるを得ず、博士課程へと残れなかったとき、1年間だけ学籍のない拙をモグりで面倒を見てくれたのが、この人物である)

哲学徒である氏は母校を離れる。理由は今後の研究人生を考えたときに、新天地のほうがよいと判断したからのようだ。

現任校も新任校も国立大だから、給与等の待遇面では大差ないだろうと考えられる。やはり決め手は研究環境なのだ。

氏の異動の話を聞いたとき、即座に「栄転だ」と思った。なぜか。現任校の哲学生の大半は大して優秀だとは思えなかったが(自分のことは棚に上げておく)、新任校は哲学研究の伝統もあり、きっと優秀な哲学生もたくさんいるだろうと(根拠はないが!)想像されたからだ。

私立校教員の「栄転」

翻って、我々私立校の教員にとって「栄転」とは何か。

拙が現任校に移るとき、古い友人からは「栄転だね」と言われた。確かに給料も多少は上がったが、それよりも友人が「栄転」と言ったのは、新たに教える生徒の質を見てのことであろう。現任校は前任校よりも進学実績が比べ物にならないほど遥かによい。

そして生徒の質も高ければ、(少なくとも英語科の)教員にもレベルが高い人が多いのは事実なので、そういう環境に置かれることで拙の授業力が磨かれたことは間違いない。

授業者として腕を磨けるところに移ることを「栄転」だと思いたい。教職の世界であれ、それ以外の業界であれ、給料の額だけを見て職場を選ぶことには大義がない、と思いたい。